外に閉じこもって朝が来て

 

 

 

  人の心の内など見えない。それは己のものであってもそう。ふっと見えなくなる時が来るというよりは、見えることの方が稀有だと思っている。何か食べ物を買うためにコンビニに来たのに、空腹なのに、ここにわたしの欲しいものはないので買わない。それと似たことが多々ある。これじゃない。これでもない。何を探しているのか、違うことだけがわかる。そういった時、わたしは自分の機嫌を取る方法さえわからない。例えるなら、家に帰ることさえ許されない。庭か、かろうじて風除室(わたしは北国産まれだ)にいることになる。羽目になる、までは感じていない。おそらく、わたしすらわたしのものではない。そう感じているからかもしれない。

  ひょんなことから家から追い出されたわたしは、最低でも一週間は家に戻れない。まさに、心ここにあらずという感じで生きる。面倒だけど、飯を喰らう。面倒だけど、排泄もする。面倒だけど、できれば、風呂にも入る。すべて豊かだからこそできることに違いなく-恵まれた環境にいるのも関わらず-、わたしはそれらができなくなることがある。そう、心が外に追い出されたから。ここで言う心とは、意識をも司っているから。

  そんなこんなで、家に入れてもらえる時はいつか来る。今まででは、来なかったことはない。ここでは、その時を朝と呼ぶことにする。朝になると、これまで家から追い出されていたのが嘘かのようにどこにでも行くことが許される。台所で食事を作っていいし、それを食べていいし、風呂に入っていいし、なんなら庭の外に出ていってもいい。会いたい人に会っていい。ここで初めて、わたしは閉じこめられていたもしくは閉じこもっていたことに気がつく。

  わたしの表情筋がうまく働かないとき、わたしは外にいる。わたしが会話を疎ましく思うとき、わたしは外にいる。間違いないのは、外にいても内にいてもわたしの意識は途切れないし、記憶も残る。ちなみに、今のわたしは、どこにでも行ける。