死ねない人の遺書

 

 

 夢と現実の境がわからない。わからなくなることで飯でも食えたらよかったが、未だそういうわけにもいかない。困った。死んでも何も可笑しくもない年齢になったとも思うし、まだまだ盛りで、死んだら死んだで面白可笑しく言われるような年齢だとも思える。ここに至るまで、死んでみようかということは何遍か考えた。考えた上で、死んだところで何も面白くないなと思った。私は生を冒涜したいのではないし、親不孝で終わりたいわけでもない。ただ、時々、生きているという感覚が面白いくらいうすーくなって、まあ、それじゃ、生きているのも可笑しな話だなというところで食指が動く。他意はないが、自分の躰を傷つけたことはないし、その意思を持つ予定もない。感覚としての生が遠くなった頃合いでは、人の死ぬ作品によく触れるようになる。そこで、見聞をいくらか広めたところで、ようやっと、ああ、今の私には縁遠いことだと気づくのである。

 断っておくが、私は残虐性を好む性質ではなく、現実に生きる分には出来る限りは道徳を持っていたいと思っている。ただ、遠くを見るのが好きなだけだ。そう思いたい。怪談は昔から好きだし、歴史や昔話の類も好きだ。どちらも此処から遠いものだと思える。それに、古い文学や詩に触れるとき、時に時間を感じさせない本に出会えるのが不思議でたまらない。しかし、何故だか皆、人生に溺れているね。営みというものをおざなりに、浮世離れに、俗世を生きている人の作品ばかり読んだ。ぺージを捲るときの心は、いつも、無味乾燥でありたいのに、幾年経っても生々しくて困る。ただ当時の私がうぶなだけかと思いたかったが、今も通じる作品を読めば、肌に熱が篭る。まるで何か得体の知れぬものを身篭ったかのように。私は、こういう経験がしたくて産まれてきたのだと、嫌でもわかる。地獄の沙汰も、画になればいいじゃないか。そういう思想が自分の中にもあることがわかる。

 何故、芸術を愛する者はフーテン扱いされがちなのだろう。学生の頃、ずっとそう思っていた。突然、芸術と表記してはみたものの、私は文字ほど高尚な趣味をしているつもりはない。広義で芸術と書くのが丁度いいと思った。そもそも、芸術は人の身にならないか。曲がりなりにも社会に飛び込んでみて思った。事実、人の身をつくるのは、食物であり生活であり、それらを支える財である。ならば、芸術は娯楽なのか。娯楽というには、苦悩が詰まりすぎている。創作というのは、並大抵の神経で出来ることではない。芸術に向き合う知人を遠目で見て、ずっとこれは地獄だと思っていた。その人が社会的な成功を納めれば、そんな口が聞けなくなるのかというと、創るということはひとえに地獄なのだ。これを覆すことができたら、自分はお気楽者になれると思う。しかし、芸術家だけに苦悩があるのだなんて思っていない。陸に生きるか、水中に生きるかの違いだと思っている。

 私のこの俗世間に馴染まない気質については、水中で生きる術に使うべきなのだと思う。たぶん。そうでなければ、一生を現実と生きることになる。夢と言えば、私の家系は夢遊病の家系である。母方にその気があるという。子どもがすやすや寝こけていたと思えば、たちまち身を起こして喋り出したり歩き出す。いや、そんなに生易しいものではなく、私は、その気の強い弟たちが泣き喚きながら廊下を走り、行ったり来たりするのをよく見ていた。フィクションで見る寝呆けのようなお気楽さはなく、何かに取り憑かれたようであったのを覚えている。神隠しだの狐憑きなんだの言っていたのは、すべて夢遊病のことではないかと思うくらいの恐ろしさだった。私にその気質はなかったかというと、しっかりと出ていたようだ。弟たちのそれと比べ、騒がしさもなかったようだが、寝床に向かう素ぶりを見せながらベランダのドアに手をかけたらしい。寝室へ向かう私を親が見ていてくれなかったら、そのときに失くした命かもなあと思える逸話である。

 泳ぐのが好きだった。小学生の頃は、スイミングスクールにも通った。長期休暇に家族でプールに行けば、水に浮かんでいるだけでしあわせだった。水に浮かんでいると、いろんなことがどうでもよくなる。今夜の楽しみだったテレビ番組に、日の近づいている友だちとの遊び約束。泳ぐのが好きでも、幼い時分には現実が遠くなる感覚はただ怖かった。私の言う、夢と現実の境の原体験のひとつである。泳ぐだけでなく、小さな躰で風呂の湯船に浮かんでいるだけで同じ感覚になることもあったものだから、今と同じくらいの身長になるくらいまでは風呂も可笑しな感覚の引き金だった。皆、そういう感覚になるものだろうか。人に聞いたことはなかったが、物を調べるようになって、これは母胎回帰だろうかと思った。思っただけで、論じるほどの脳はない。出産予定日から半月も遅れて母から出てきた身分であるので、文字を見たとき可笑しくもないなと感じたのである。大人になってからは、とんと遠ざかっていた感覚だったが、ふとしたときにそれは蘇った。性行為後に大きく息をついている間のことだが、そのとき、これは人間の持つ信号なのかもしれないと思った。性と死は近いが、その実、裏面でもある。

 色々と体験を重ねるごとに、何もかもが繋がっていると感じる。現実は小説で読むほど美しくはないし、むしろ機微の細かい分、猥雑だ。生きれば生きるほどに、眼から鱗は落ちるが、想像していた瞬きというものはそう存在しないことがわかる。まだ飲み残しはないだろうか。そういう気持ちで生きるのはよくないと思うが、どうもしゃんと生きるということができない。生きている振りだけうまくなったが、どうにもならない。実を言えば、この文は戯れで遺書をと書き始めた乱文である。ここまで思うままに書いて、生きるには能のない人間だが、死ぬ理由もないなと感じた。困った。どうにかして生きなくてはならない。どうにもならない自分を生かしてやらねばならない。人間でなければ、野生に生きるのも難ないと思うのに、私は人間だ。