愛を愛たらしめるもの

 

 

自慢でもなんでもないが、気持ちを言葉にすることが苦手みたいだ。聞いて驚け。そんなことにもなんと最近気がついたのだ。「ありがとう」や「ごめんなさい」は礼儀だと思っているので、家族にも友だちにも日常的に言ってる。社会人をやっている分にも問題ない。致命的に思っているのは、わたしは人に愛を囁いたことがない。

なんで人は好意を口にしたくなるんだろう。不思議に思うまでもない。そういう気持ちは時に理解できる。わたしだって友だちに「そういうとこ好きだよ」と伝えたことくらいある。けれどもどうして、親密な関係になる人には言えないんだろう。短いながらこれまで生きてきて、愛を囁かれたことはある。そうだ。人間は言葉を大事にする。言わなきゃいけないのかもしれない。愛を囁かれっぱなしなんて言語道断。しかし、焦れば焦るほど言えない。喉の入り口に何かが張り付いてしまっているのではないか。頭を抱えたことは一度や二度のことではない。親密な仲であるふたりに言葉なんて必要だろうか? 答えは、おそらくイエス。人間なのだから言葉にしなくては。言葉の重要性など、とっくのとうにわかっているくせに。これだからたちが悪い。そう言われても仕方がない。

そんなこんなで気持ちを言葉にできないことで良心の呵責を感じ続け、大声で愛を叫べたらなんて思い続けてきた。いつかそういう人に出会えるんだろうかなんてことも。でも実際に誰かを好きになったりお付き合いしたりしても変わらなかった。もちろん恋する人物相手に何も感じていないわけなんかない。「ああ素敵!こういうところが素敵!こんな人世界中探してもどこにもいない!いまここしか!なんて奇跡!」 こんな具合に思うことなんか朝飯前だ。そう、思うことくらいは。口に出せないのだ。

なんかこう、日記に書くみたいに文字にしてみたり歌にしてみたりそういうことはするんだよ。いやそんな内気すぎるスナフキンみたいなことあるか。ところがどっこい、思春期を迎えてからずっとわたしはこんな具合である。まだ思春期も抜けられていない気がする。

わたしに愛された人はついぞわたしの口から愛の言葉を聞くことはないかもしれないけど、高村光太郎の智恵子や茨木のり子のY氏みたいに世に残り続けるのかもしれないよ。それってどうだろう。嫌がられるかもしれなくても、それくらいしか慰めの言葉が思いつかない。わたしに愛された人は気の毒だ。