浮かぶような日々を

 
 鴨が水面に浮いていた。揺蕩うとか言うのが正しいのかもしれないが、直感的に、あ、浮いている、と思った。秋の池は透明度が低いからだろうか。ぼうっと気を遠くにしていると、紅葉を待たず落葉してしまった葉と、自我があるのかないのかわからない眼差しを持つ鴨との間に、生死の違いをさほど感じなかった。今日に至るまで、鴨は自由気ままにあちこちを好き勝手に泳ぐ生き物だとばかり思っていた。単なる偶然だろうが、そのとき、綺麗に並んで同じ方向に進む鴨の群れを見て、バレエの群舞を観たような気分になった(ちなみにわたしはバレエを動画でしか観たことがない)。水面に轍が出来ては消える。それまで抱いていた心をかき乱すような気持ちがふっと消えた。だから水辺はいい。ずっと眺めていられると思った。

 

 昔から、ひとり目が覚めてしまう夜が怖い。余計なことばかりを考えるから。隣で平和に寝こける見知った顔がもはや憎い。わたしがこんなに寂しい想いをしているというのに、楽しい夢でも見ながら眠っているのだろう。いつも無意味に腹を立てた。携帯を買い与えられるような年齢でもなかった小学生の頃には、夜中に目が覚めてしまうと、することもないからカーテンの皺を見つめるのが習慣になっていた。豆電球の光もあいまって、そこには小さな魔女たちが集まっているように見えた。

 あるとき、幼い自分にも、「いつかはこうなるのだろうな」という自覚が芽生えた。今は、夜に目が覚めれば、迷惑にも母親を揺さぶり起こして、「眠れないのだ」と泣きつくことができる。いつか、それができなくなるだろう。そういう予感があった。小学校の近くで配られていた宗教勧誘のパンフレットの文言が頭にこびりついて離れない時期のことだった。「人は誰もが死を迎える」、「死後の救済を」。そんなことが書かれていた。それまで、人が死ぬことなど真剣に考えたこともなかった。親族が縁遠い家に育ったので、葬式に出る機会などほとんどなかった。物心もつかない頃に見た、祖父の白い骨が唯一の死の記憶だった。いつかは人はひとりになるということを自覚した夜は、初めて孤独を実感した夜となった。いつか母は死ぬ。わたしを置いて。落雷のような気づきだった。父のことを然程考えなかったのは、やはり子どもにとって母は偉大な存在だからなのだろうか。子どもながらに思い悩むようになり、朝な夕な死や孤独のことを考えた。三日だったのかもしれないし、一週間だったのかもしれない。耐えかねたわたしは、ようやっと不審な娘の様子に気づいた母の前で泣いた。わたしより先に死なないでほしい。今思い出してみると親不孝な言葉だ。その懇願を叶えてもらうためには、わたしが先に死ぬことになる。その日は、「まだ先のことだよ」とかなんとか適当に宥められ、それから眠れない夜はそれなりに減った。小学2年生の頃の話だ。

 今でも、ひとり目が覚めてしまう夜は怖い。横に友だちがいようが、恋人がいようが、安堵することなどない。いわば、眠りは死と似ているからだ。ひとり目が覚めてしまうと、いつか横で眠っているそれらは失われることを自覚させられる。わたしの宗教観はどうなっているのだろうと度々考えるが、おそらく天国や極楽浄土など信じていないのだろう。個人的に宗教学やスピリチュアルに関心はあって、調べはするものの、ここに至るまで何もピンときていない。死んだことなどないから、当たり前だろうか。死んだわたしに待ち受けるのは、孤独な世界に違いないという曖昧な恐怖が今もある。死んでみないとわかりようがないが。

 

 死んでいるのか生きているのかわからない日々は過ぎ、気がつけば目の前には現実が横たえていた。おーい、と声をかけ頬を叩くが、うんともすんとも言わず、ただ苦悶の表情を浮かべ、呼吸音だけが聞こえる。まだまだ状況は悪い。はたしてこいつに、生きている意味はあるのだろうか。いや、まだそれを考えるときではないのだ。やっと今を生きられるようになった。それだけでいいじゃないか。そう思うことにした。生きるしかないのだから。

 近頃になって、生きるしかない、と自然と思えたのは、おそらく生まれて初めてのことだった。前述のエピソードから想像できるだろうが、気がつけば死ぬことばかり考える子どもだった。そいつが大人になっても同じことだった。死は恐怖であり、終わりであり、救いであると直感で信じていた。ニンテンドー64にリセットボタンがついていることへの安心感と似ているかもしれない。使わないで済むならばいいけれど、いざとなったら使えるやつ。そんな認識だった。ここに来てやっと、使わないで生きてやろうじゃないかという反骨心が生まれてきた。

 実は、ここ一年はいろんなことがあった。まだ11月も始まったばかりだけれど、一年で五年が過ぎてしまったような疲労感がある。精神も病んだし、身体もおかしくなった。そうなっておかしくない出来事は、そりゃもう複数あった。わたしの精神など、どこからが正常なのかわからないが、過呼吸を起こしたのは、生まれて初めてのことだった。それを薬で抑えて働いているのが今だ。薬のない世の中に生まれていたら一瞬で人生積んでいただろうと思う。とりあえず過呼吸抑えて一日就業できたらわたしの勝ち。毎日それで生きている。やれることからやるしかない。

 薬の副作用なのか、宙に浮いているような感覚になることがある。それくらいでいいのかもしれない。みんな地に足をつけすぎなんだよ。少し浮いていると、なぜだか遠くまで見られるような感覚になれる。一ヶ月後のことはまだわからないけど、三日後にはドライブに行こう。山でもいい、海でもいい。自然が見たい。ここには、人間が浮かべる環境などないから。