幸せ恐怖症

 

 

 わたしはいつだって何かを恐ろしく感じ、忌避していると思う。きらきらと輝くものなんて特に怖いのだ。

 明るい人が怖い。明るいまま過ごすなんてわたしには苦行だから(無意識に偉いなあって引け目を感じてしまう)。明るい家庭が怖い。わたしはそんなの馴染みないから。ついでに言うと、偏頭痛持ちになってからは極度に明るい場所も怖い。頭痛が出るんじゃないかと不安になるから。理由なんかいくらでも付け足せるけれど、結局は直感的に怖いと思っているところが大きい。

 

 そういう性質をしていると感じるようになったのは、いつからだろう。思い出せないが、物心のつく頃には感性は鬱蒼としていた。小説や漫画でも明るい話は好まなかったし、好きな音楽はシングルになるような売れ筋でなく、アルバムに入っている、ファンでも話題にあげないような曲。気がついたらそうだった。どうしてだろう。未だにそう思っている。

 自分のそういう面を自覚しながらも、人前で鬱々とするのは気が引けるから、なるべく元気に振舞っていた。それでも陰気な女だと言われることもあった(直接伝えてくる無神経もいた)。その度、理不尽だ、と思った。明るさというトーンを世間一般のそれに合わようと苦心しているのに、あなたがたは受け入れてくれない。なぜなのか。

 それでも、社会人として働き始めて数年も経てば、人との適切な距離感というものを覚える。わたしにとって、それはとてもありがたいことだった。遠くもなく近くもなく、わたしの明るさ暗さもわからない距離にいてほしい。それがささやかな願いだった。

 

 しかし、滲み出してしまうものはある。このままのわたしでも受け入れてくれるのではないか、と感じさせてくれる人物というのは、時折現れるものだ。そういう出会いが苦手だ。とてもありがたい巡り合わせだとわかってはいるのに。そうは言っても、一瞬でも見えてしまった期待に抗うことはとても難しい。恐れつつも、少しずつ、自我を出す。わたしはこういう文化が好きで、こういう(大抵普通の人間は口に出さないような)ことを考える瞬間があって、こうやって生きてきました。なんてことのない問答でも、とても緊張する。ああ、やっぱりあなたではないのだ、と思える方がまだいい。受け入れてくれるかもしれないという柔さが、わたしはとても恐ろしい。誰だってそうなのだろうか。わたしが臆病すぎるだけなのだろうか。過去に、幸せ恐怖症だね、と人に言われた記憶が思い出される。

 こんなだから、当然、恋をするのなんか命がけだ。他人に何かを委ねることは恐ろしい。期待を持つことが恐ろしい。だって、たいていのものは、いなくなるから。そういえば、母がよく言ってた「動物は飼いたくない。だって死んじゃうから」は近しい感覚があるな、と思った。

 すべてのものが、うすらぼんやりしていた方が楽だ。だってわたしだって死んじゃうんだから。どこに根付くこともなく、人との距離は適切に測り、誰とも深い関係にならない。心を持っていかれるようなことに遭遇しないように努める。理屈の上ではそれでもいいはずなのに、どうしてそれだけでは満たされないんだろう。