ゆきがとけたら

 その日は、もう春がやってきたんじゃないかと思うくらいあたたかくて、積もった雪も溶けはじめ、軒先からはぼたぼた雫の落ちる音がした。道路もアスファルトが見えるほどになり、あちこちに水たまりができていた。本屋からの帰り道、雪に反射する光に差されて目を細めていると、向こうから女の子が走ってくるのが見えた。まだ中学年くらいだろうか、長靴も履かず、跳ね返る水もおかまいなしに走る姿がやけにまぶしくて、そっと道をあけた。感傷的になってしまうから、わたしは夏以外の季節が苦手なんだけど、春を好きだった頃だってあったなと懐かしく感じた。

 

 幼い頃、走っているときは他のことがどうだって良かった。生来、わたしは内向的な側面と外向的な側面を併せて持ち合わせていて、小学生の頃ならば、図書館で読書をする習慣を持つ一方で、休み時間は男の子の集団にひとり混ざりサッカーをしていることが多かった。当時は男の子より背が高かったこともあって、サッカーチームに入っているような子に重宝してもらえるのが単純に嬉しかった。運動不足もいいところである今となっては、どうしてあんなに走り続けられたのだろうと不思議に思うほど、毎日のようにボールを追いかけていた。当時は近年ほどの猛暑に見舞われることもなく、北国らしい気候の夏に駆け回り、風が運動で汗まみれになった身体を撫でてくれるのが気持ちよくて好きだった。妙な感覚だとは思うが、人間よりも動物に近い気分で生きていられた頃だと思う。余計なことを考える余地がなかった。退屈に感じていた授業の最中に、先生の話を耳半分で聞きながら、窓の外を眺めたって、思考の海に溺れることはなかった。ただ、大人になった未来の自分が想像できなくって、くすぐったい気持ちでいた。

 

 大人になってできることが増えたって、今も未来のことなんか想像できなくって、思春期に悩み尽くした生きている意味なんて未だにわからない。社交性を養っても集団ではなんとなく浮いてしまうし、誰かといてもひとりぼっちだと感じることはいくつになってもある。忘れずにいようと思った人からもらった嬉しい言葉はすぐに忘れるし、忘れてしまおうと思い続ける過去は、折に触れて現れて目の前を真っ暗にする。生きていることそのものが稀有なことで、生き続けるばかりにつらく、絶望しそうになるほど胸の内の空洞は広い。

 こうして生まれてしまったのだから、三つ子の魂百まで変わらないのだと、ぐっと歯を食いしばることを覚えた。なんだってこんなに生きることが怖いのだろう。物心ついて、子どもだった頃の無防備な勇敢さをどこかに落としてきてしまった。それでも、毎年、春を迎えると胸がほころぶし、大好きな夏はまだかと待ちわびている。おそるおそるでもいいから、わたしはわたしの春を探したらいいのかもしれない。なぜ生きることはこんなに寂しいのか、塞ぎ込む気持ちはきっと消えないだろうけれど。