生きているだけで

 

 

 生きているだけで疲れる。

 これはわたしの為の映画だと思った。そんな人たくさんいる? 知るか知るか知るか。わたしの為の映画だ。

 

 最近、仕事を辞めた。元々固定職に就いている人間ではないけど、おそらく世間一般の大多数が想像するよりはわたしは仕事を変える頻度が早い。音楽がやりやすいようにと正社員雇用を選択肢から捨てているにしても、大抵長くは続かない。仕事についていけないのではない。人間関係に悩むでもない。ある日、突然螺子が切れたように身体に支障が出る。はた。またこれか。うんざりする時期の始まり。

 どうしてかはわからないけど、息がしづらいような。深呼吸をする。治らない。おかしい。何がいつもとは違うんだろう。口うるさい上司、いじめてくる先輩。ひとりでは抱え切れないほどの仕事量。終電ではとても帰れない勤務時間。違う。そんなんじゃない。ひとつも当てはまらない。同世代の人はそんな中でもがんばっていると知ってる。わたしはどっかおかしいんだ。いつからか諦めるようになる。そういう時期が来たんだから、仕方ない。場所を変えよう。

 なんでだろう。いつも浮いてる気がする。数センチくらいかな。もっとかな。日本語をしっかり喋っていて文脈にも問題はないはずなのに爪弾きにされたような感覚になる瞬間がある。宇宙人だ。そんな視線を向けられていると感じることがある。やめてください。わたしはあなたと同じ人間です。変なこと言ったつもりないよ。そんな気持ちが沸く。いずれは、もう人間じゃなくて宇宙人でいいよ、期待しない癖がつく。

 息ができないのも、なんとなく浮いてしまうのも、気の合う人といるときには起こらないことだ。わたしは気の合う人がいるだけで幸運な人間だと思う。『生きているだけで、愛。』の寧子はそういう存在にまだ出会えていないんだろう。それでも彼女の孤独に共感した。寧子みたいな気質の人に飲食のバイトはつらい気がする。知らんけど。わたしはつらいから。自分のことのように慣れない接客のシーンが痛い。なんでみんなができることを、わたしはできないんだろう。いつか感じたやるせない怒りが蘇るようだった。

 

 生きている中で、どうしようもなく誰かを好きになってしまう時期があることを知っている。思い出した。そもそも、わたしの持論では恋というものは天災と同じだ。否応なく出会ってしまう。天災あるいは引力。あるいは本能。

 あなたの存在に美しさを見出した。それをもっと見せてほしかった。相手からすれば知ったこっちゃない話だ。その癖、そんな理由で一緒にいることを決めたふたりというのは往往にしてぶつかり合う。気質があまりに違うだとかで。イリュージョンだ。おそらく、そばにいれば美しい風景をまた見られると信じてしまうほどの奇跡を出会い頭で見てしまったのだ。いや、魅せられてしまったのだ。もはや天災に違いない。隕石が落ちてきたからわたしは死んだ。時に恋とはそういうものである。

 

 わかんないならわかんないって言ってほしいけど、それはそれで傷つくのって勝手だね。わかってはいても、ぼろぼろと何かが自分の内側で崩れていっても、わたしたちは目の前の人に無意識に期待することを止められない。期待って、その人の一部分への信頼を予感することだと思う。「あなたのこういうところを愛しています」の先取りだ。予見だ。それによって、勝手に期待してよもや傷つけてなんてことはしたくはないのに、時に傷つき傷つけ合うこともある。

 みんながみんな、大事な人と互いを真綿でくるみあうように過ごせたらいいのに。そんなことできたとしても続かないってわかってる。わかっているし、真綿でつつみあうだけじゃわたしはやだな。時に内臓を掴まれるような何かがほしい。