彼女の世界の片隅であっても

 

 祖母が亡くなった。もうすぐで誕生日を迎えられるかと思った矢先のことだった。命日である今日は通夜の準備に駆り出されることもなかったので、これを書き始めた。ある程度覚悟できていることだったからだろうか。今現在、胸の内はやけに静かである。わたしはこの頃どうも調子が悪くて、外に仕事のある自宅警備員をやっている。暇をもらっているのだ。そういうわけで母に使われやすい立場であり、正午過ぎのLINE電話も何の気なしに取った。「おばあちゃんの呼吸が止まったって。ほんの10分前のことだって」電話越しに聞く嗚咽混じりの声はなんだか現実味がなかった。母と対照的にわたしはやけに冷静になってしまう。「呼吸が止まった?今はどうしてるの?」呼吸停止すなわち死亡と結びつかなかったのだ。うまく汲み取れなくて妙な質問をしてしまった。誰に向けるでもない憤りを込めて母は声をひねり出した。おばあちゃんは死んだの。もう戻ってこないんだよ。かくして祖母は身内に看取られることもなく逝った。痛みもなく安らかな様子だったらしい。

 

 祖母は亡き夫と一緒に飲食店をやっていた。あるときは寿司屋、またあるときは居酒屋をやっていたとか。料理人というよりは商売人だったのだろう。わたしが生まれてほどなく祖父は亡くなり、しばらく祖母が切り盛りしていた店も物心のつく前に後継に譲られた。しかし店と住まいが近いので、引退してなお祖母の店のようなものだったと思う。幼い頃には何度も店に顔を出した。祖母の店に行くと瓶入りのジュース(大抵コーラだ)が出てきて、好物のいくら丼が食べられる。それもどんぶりから溢れそうなほどのいくらが乗った豪勢ないくら丼。飲食店特有の油っぽい臭いに包まれながら、恒例のようにそんなご馳走を食べた。座るのは決まってカウンター席で、その頃にしても古めかしいダイヤル式の電話が置かれた隣のあたり。カウンターと厨房の間には、名札のついた酒瓶がズラリと並んでいる。「やっちゃん」だの「のりピー」だのあだ名書きがほとんどだったような気がする。それゆえに知り合いが人より多い。成人してしばし経つが、わたしはまだ酒で繋がる仲というものがわからない。世代的な差もあるだろうか。通夜で揃った昔馴染みも商売の関係の仲が多かったようで、空気からしてわたしとは違うなと思った。しかし、そうか。おばあちゃんはこの人たちと生きてきたのか。腑に落ちた。

 ついこの間入院したばかりだった祖母の病室には、代わる代わる知人が見舞いに来ていたらしい。それなのに、人が途切れたタイミングでひとり逝ってしまったのが彼女らしい。死に際など見せたくなかったのではないか。亡くなる少し前には、自分の年齢も、昨日見舞いに来た人間のことも忘れるようになった。老いというのは、こういうものか。検査をしようと病院へ行ったのが最初だった。食が細く足も弱くなり、どうもおかしいと嫁である母が病院嫌いの祖母を病院へ連れて行った。老衰なら仕方ないだろうと思いたかったが、余命のつく病気が見つかった。身内も介護に関わるスタッフも気づけなかった。ごく近親の身内のみに知らせ、本人には検査結果を言わぬことにした。しかし、事情を知る身内のうち、病室で泣いてしまう人もいたと言う。馬鹿者、とわたしは思ったが、責められるものでもない。祖母も死期を悟ったろう。みるみるうちに、生気を失っていった。結局わたしは入院中は一度しか見舞いに行けなかったが、弱々しい手が握手を求めてきたことを覚えている。そんなこと、するような人でないのだ。近年そういうことをするようになり、盆や正月に家に泊まりに来るたび「来年は来れないだろうね」と言った。そのたびにわたしは無性に悔しい気持ちにさせられた。

 

 彼女を知る人は皆、祖母が怒りっぽい人間であることを知っている。誰より口が達者なので煙たがられるかと思いきや、一方で人好きのする性格だった。人の合う合わないがはっきりわかれるため、事実周囲には彼女を疎む人もいたと聞く。しかし、葬儀にもなるとその当人からお花をもらったりする(そのどでかいお花は今うちにある)のだから不思議なものだ。「憎まれっ子世に憚る」とはよく言ったもので、そんな人なのだ。出棺の間際にも「向こうでマスター(彼女の亡き夫のことだ)と元気に喧嘩するんだよ!」なんて言われる始末だ。

 実を言えば、わたしは合う合わないの合わない方の人間だった。祖母が家に泊まりにくれば喧嘩もよくしたし、イヤミにも聞こえる物言いが嫌いだった。なのに、なんでこんな悲しいのか。思えばわたしは、物心ついてからの身内との別れはこれが初めてである。それを差し引いてもおかしいと思えるくらいに悲しく、すべてを終えた今も涙が出てくる。還暦は迎えていたから、長寿と言ってもいい生涯だったろう。参列してくれた人たちも穏やかな顔で口々に「良い人生だったね」と言った。それでも、眠ったような祖母の蝋のように真っ白な手を見て、皺を伸ばして綺麗に死に化粧をされた顔を見て、冷たい頬と生前は気づかなかった生え際の大きなホクロに触れて、出棺を見送るときは顔が痙攣するほど泣いた。通夜でさめざめ泣くわたしを見て、叔母は明日の方がつらいよと言った。違いなかった。人が死ぬというのはこういうことなのか。綺麗な顔してるなんて言葉は、今までのわたしの中ではフィクションの台詞だった。

 人は死ねば焼かれる。そして、焼かれれば骨になるのか。そうか。収骨室ではどこかふわふわした心地でいた。さっきまで人の身があった人間が、骨になるなんて実感はどこにもなかった。祖母は小柄だったから「普通の人と同じ時間で焼いたら骨が溶けちまうんじゃないか」なんておじさんが笑っていたが、真っ白な骨はそこにあり、溶けてなどいなかった。しかし、箸でつまんだ骨は想像より軽く、わたしは人一倍懸命に骨壺へ骨を移し続けた。かけらでも残すなんて許せない気がした。家に持ち帰ってきた骨箱を運ぶように言われて持ったそれは、想像より重かった。息子である父は「こんなに小さくなって」とふざけるように何度も言った。犬猿の仲だったくせに。明るく振る舞う父が痛々しく、なにも言えなかった。

 

 家へ帰ってきた今日は『この世界の片隅に』の地上波初放送があり、母と一緒に見た。疲れ果てた弟は夕飯を食べてすぐソファで寝落ちたまま眠り続けていた。父はご飯どき以外は自室にいることがほとんどなのに、映画を観るわたしたちに空元気のままどうでもいいような話をしたり、簡易的につくった仏壇に向かって何度か拝んだりした。ちぐはぐな夜だ。バラエティ番組を観ていても映画を観ていても、ここはいつも住んでいる家のはずなのに、テレビから視線を後ろへ移すと骨箱と遺影が机に並んでいるのが不思議だった。

 斎場から家に帰る道中は愉快に話し続けていた父が、家に着いてしばらく経った頃合いで「受付番をしてくれてありがとう。ばあちゃんもよくやってくれたって言ってたわ」などとかしこまってわたしに向き合い直した。父はそういう物言いをする傾向にある。悪い気はしなかったが、はたしてそんなことあるだろうかと思った。斎場に並んだ面々も「きっと幸せだったって言ってるわ」「向こうに行ってもそうだといいね」「次のお迎えもあるからきっとすぐ会える」なんて笑っていた。そんなことを一日二日も続けて聞くとそんな世界もあるのだろうと思えるから不思議だ。弔いはやはり今も生きるわたしたちのものだ。そう思う考えは変わらない。わたしは死んだらどうなるかなんてまだわからない。また会えるかなんて知らない。それでも生きて、そして死ぬ世界で、出会えて別れがあるということ。それはすてきなことなのかもしれない。そう思えたのは初めてのことだ。すぐにいろいろなことを忘れていったりしたくないから、しばらくいつも以上に夢うつつでいることを許してほしい。