どこかへ行きたしと思えどもどこかはあまりに遠し

 

ああ、現実があまりに近くなってしまった。現実があまりに近くなると、やわな感性がふらっとどこかへ往く。そんなときに超大型連休がやって来るというのだから、タイミングがいい。ここまで長期間の休暇をもらってしまうと非正規雇用社員は生活が苦しくもなってくるものだが、こんなときは思い切り花を伸ばさせてもらおうじゃないか。そう思っていたのも、つい先日のこと。連休前半には花見もしたし、海にも行った。それなりに自由にさせてもらった気はするが、気持ちはどこか落ち着かない。というか、心が現実から離れられていないのだ。

普段、社会人をやっていると感情の機微というやつは基本邪魔者にしかならない。多少の気遣いとやらは必要にはなるが、感情を必要以上に出して良いことにはならない。社会ではコントロールという言葉をやたらめったらよく聞く。それでも愛嬌は必要とされるので、それが面倒極まりない。わたしはケースバイケースで愛嬌を引き出せない不器用なので、働いている間はある一定以上の愛嬌はどこかへ捨て置くことにしている。するとどうだろう。不思議なことに、日常の感情の波も無くなっていく。何を読んでも、何を聴いても感動ってやつがない。人間ってやつはよく出来てる。楽なことには楽だ。現実を生きていくには、好都合と言えるだろう。

しかし、そう無感動な状態を続けるわけにもいかない。本来のわたし(の心中)は、騒がしくて仕方がないくらいなのだから。社会に対応させるために自分を曲げたりしなければ、迂闊に泣いたり怒ったりもする。そんなこんなで感情を胸の底に押し込めていると(はたまた出力を切ってしまうと)何故だか身体の方が根を上げる。熱が出たり、懇々と眠り続けたり。わたしは超がつくほど虚弱体質なので、社会人よろしく普段の生活はそれなりに整えている。それでも駄目らしい。というわけで、このゴールデン・ウィーク中も何日かは昼な夜なと眠り続けた。こうもなると毎度長い眠りにつくたびに何らかの病気を疑うのだが、虚弱ゆえに疑わしき点が多すぎるので今のところはどうにもなっていない。

身体が元気になると、次に心が栄養を求める。こういうとき決まってわたしが求めるのは、文字だ。映像や音は自分のペースに合わせてくれない。病み上がりには良くないと思っている。その点、文字は良い。好きなときに好きなだけ読める。1ページだけでも、数行だけでも胸を一杯にさせることだって可能だ。文字はすごい。そんなこんなで、今日はボイストレーニングが終わったその足で図書館に来た。図書館は好きだ。ついでに図書館に集まる人も好きだ。図書館にいる人というだけで、狭い棚ですれ違う瞬間にうすい尊敬の念さえ抱くことができる。オタクってそういうところがある。単純である。新書も好きだし、年季が入った本も好きだ。日に焼けたわけでもなく経年により琥珀のように茶色くなったページはチョコレートに似た甘い匂いがするので、高頻度で嗅ぎたくなる(ちなみにこれを人に話して同意されたことは片手の指で足りるほどしかない)。

今日は特に目当ての本はなかったので、館内を練り歩くことから始めた。端っこの哲学の棚から始まり、歴史学民俗学…… 語学まで行くと文学の棚はすぐそこだ。わたしは文学以外のジャンルの本を借りることはそうないが、時間があるときはこれをする。そうしないとなんだか物足りない。練り歩いても目ぼしい本が見当たらなかったので、雑誌を少し読んで目を慣らすことにした。美術雑誌の幽霊画特集を読んで少し幽霊画を齧った気になったり、ローカル雑誌を読んで北国の自然を味わったり。アンジュルム和田彩花さんはインタビュー記事でさえ文才を感じさせるなあなんて思ったり。ここまで来ると準備も万端だろ。そう思えたときに文学棚を漁りに行く。

何故だろう。わたしは知らない作家を読もうと思うことはほとんどない。文体の合う合わないが激しいのだ。逆に言えば、題材にさほど興味はなくとも文体の好きな作家なら読む。そういえば、音楽の聴き方もだいたいそんな感じだ。好きな曲があっても、アルバム単位で好きにならなければ好きなアーティストとして挙げることはない。もっと言うと、本当に好きな作家やアーティストともなると私生活や考え方まで好きだ。根本がオタクなのである。

話を戻すが、本はいい。長編を読んでいるときなんかは、残りのページが薄くなっていくほどに切なくなる。それもまたいい。本を読むことは、終わりの見える旅をしているようなことだと思っている。それこそどこかへ行きたいと思っても先立つ物のなかった年頃なんかは、数え切れないほどに旅をさせてもらった。前述した通り、わたしの治癒は自分の世界に篭ることで行われる。特に春は生物がいろんな意味で狂う季節なので、過去には本がなければ越せなかったであろう春もあった。今は例のごとく精神がどっか行っちゃってるが、制限数まで目一杯借りてきた本を読めばそれなりに感受性が戻ってきていることだろう。経験則からそう思う。

 

世間の言うところの大人になって思うこと。大人になったから、働いているから、何かを犠牲にすればどこへだって行ける。わかってはいても最近わからないのだ。わたしが行きたいどこかってどこだろう。